烏山線と共に・・・

昭和46年9月・・・今では考えられないだろうが、自宅分娩でこの世に生を受けた。
自宅の後ろには烏山線が走り、ディーゼルエンジンの唸り声とジョイント音が子守唄だったのだろう。
物心が付いた時には、立派な鉄道少年になっていた・・・。

30数年前の事を一生懸命思い出そうとするが、記憶に残っているのは、烏山まで貨物列車が走っていたのと、国鉄一般色(だったと思う)のキハ20で、このキハ20に思い入れが深かったのを今でも覚えている。
キハ20国鉄一般色(茨城交通湊線)

幼少時代の一番の楽しみは、母に連れられ、烏山線の気動車に揺られ、宇都宮まで買い物に行く事だった。
自宅の最寄り駅である仁井田駅は、直ぐ近くに高校がある為に、土曜日のお昼頃の上り列車は、山手線並の乗車率!と言っても過言では無い位の混雑だったが、密かな楽しみがあった。
その楽しみとは、もちろん「かぶりつき」だが、運転士が車内とホームの乗客を確認し、乗り切れないと判断すると、乗務員室と客室の仕切りを開放し、これ以上無い!と言う特等席に案内してくれるのであった。
キハ20乗務員室(茨城交通湊線)

キハ20が大好きだった最大の理由が、上の参考画像の様に、仕切りの半分から上が開放されている事で、かぶりついた時に運転士の一挙手一投足を間近に見る事が出来る事だった。

そのキハ20も、次第に新型のキハ40に置き換わってしまった。
いつ頃の事だったかハッキリした記憶が無いのが残念であるが、恐らく保育園に通っていた頃だったと思う。
遊び場でもあった仁井田駅に「さよならキハ20」と装飾された看板が掲げられていた事を鮮明に覚えている。
また、その頃のキハ20は、新鋭のキハ40と同じ国鉄首都圏色(通称・タラコ)になっていたが、キハ40に置き換わってからも、暫くキハ20が1両だけ生き残っていた。
母に連れられ、宇都宮に出掛ける時に、キハ40に混じってキハ20が連結されていると、好んでキハ20を選んで乗った事を今でも鮮明に覚えている。

      
現在、この場所から撮影する事は出来ない・・・当時は右手に貨物側線が残っていて、思いっきり敷地内だったが、運行に支障をきたす様な危険行為をしなければ、怒られる事は全く無かった。
これも古き良き国鉄時代の思い出・・・

当時の写真があれば・・・

上の画像は現在のキハ40だが、自宅の2階からは30分に1本行き来する烏山線の車両が見える。
また、自宅横の路地には烏山線を横断する踏切があるのだが、当時は警報機も遮断機も無い「第4種踏切」だった。
その踏切も、麒麟麦酒専用貨物を運行する為に、仁井田駅に側線を敷設すると共に警報機が設置され、ポイントの上を踏切が通る構造となった。
それがいつの事だったか記憶が無かったのだが、今は「インターネット」と言う便利なモノがあり「烏山線」で検索すると、様々な情報を知る事が出来る。
その結果、昭和54年7月と言う事が判明し、当時8歳、小学2年生の時の出来事である事が判明した。
麒麟麦酒専用貨物はDE10ディーゼル機関車が重連で牽引していた。
10時過ぎに仁井田駅の側線に到着し、普通列車を退避した後に推進運転で麒麟麦酒専用線に入線し、荷役を終えた貨車を牽引して再び仁井田駅の側線に戻り、機回しをした後に3時頃まで側線で待機し、乗務員は駅舎で休んでいたので、昼寝をしている機関車や車掌車のデッキは格好の遊び場だった。
詳しくは別ページで特集を組む予定なので乞うご期待!→ こちら

現在の「第1文挟踏切」

更に幼少時代の記憶を辿ると、今の様にテレビゲームなどインドアな遊びは存在せず、近所の同年代の子供達と仁井田駅周辺で遊ぶ事が日課だった。
烏山まで貨物輸送があった頃は、仁井田駅前にも日通の営業所があり、駅前も華やかだった記憶がある。
貨物輸送廃止と共に日通は撤退したが、貨物ホームと倉庫が残っていて、その当時は格好の遊び場であった。
外での遊びに飽きると駅舎に向かい、待合室から駅事務室を覗いては、赤い箱と変わったベルが鳴る電話機に「アレは何だろう?」と疑問を抱いていたのを鮮明に覚えている。
それが「タブレット閉塞機」で、変わったベルが鳴る電話機で隣の駅と通信している事を知るのは、だいぶ経ってからの事だった。
タブレット閉塞機(大宮鉄道博物館)

そんな環境の中で育ったので、自然と鉄道が好きになったワケで、将来の夢は?と聞かれると、決まって「電車の運転士」だった。
また、機関車やポイント等の鉄道設備を間近で見ていたので、次第に連結器やポイント、転轍標識等に興味を持つ様になったのだと思う。
小学校高学年になると、父親のカメラを持ち出しては写真を撮る様になり、中学生になると、父親のカメラはいつの間にか自分が使い回す様になっていた。
それと同時に写真部に入部し、自転車通学だったので行動範囲が広がり、東北本線の宝積寺界隈に撮影しに行く様になったのだが、残念ながらネガが一部しか残っていなかった・・・
現在、発掘(!?)された当時のネガをデジタル化している最中なので、準備が出来次第、別ページにて公開予定!

中学生になり行動範囲が広がり、本線を行き来する多種多様・色とりどりな列車を見る様になると、国鉄首都圏色の赤1色だけの烏山線のキハ40はつまらなくなってしまった。
また、中学3年になるとバイクに興味を持ち始め、高校に進学して原付免許を取得すると、完全に鉄道から足が離れてしまった・・・
とは言う物の、烏山の高校に進学したので、通学は3年間烏山線だったのは言うまでも無く、座席に座れない時は先頭の乗務員室に「かぶりつき」をするか、連結部の開放されている助手席に陣取って、ちょっとした乗務員気分に浸る事は忘れていなかった。
連結部の助手席(キハ52 岩泉線)

そんな高校時代に、国鉄が分割民営化されて幕を下ろしてJRとなってしまい、高校を卒業してクルマを運転する様になると、更に鉄道から離れてしまい、国鉄の名残が消えて行くのに気付いたのは、つい最近の事である・・・

駅員が2〜3人常駐していた仁井田駅は、自動閉塞化されてタブレット交換が無くなり、駅長不在の業務委託駅となっていまい、駅員がホームに出て列車監視や出発合図をする事は無く、夜7時から翌朝8時までは無人となってしまう。
また、運行されるキハ40は、車掌が乗務しないワンマン運転となり、輸送効率を上げる為にボックスシートとトイレが撤去されて、味の無いスーパーロングシートに変身してしまったのは残念で仕方が無い・・・
高校時代の朝のラッシュ時は、6両編成で運行される事があったが、今ではワンマン運転の為にラッシュ時も2両編成である。
朝の列車に乗る機会があり、ラッシュ時間帯は車掌が乗務し、宇都宮直通は3両編成で運行されている事が分かった。(2007.12.16訂正)

そんな烏山線のキハ40も車齢が30年を超えて、故障しては立ち往生や運休になる事が年に数回発生する様になり、近い将来に新型に置き換わるのは間違い無いであろう・・・
奇しくも盛岡のキハ52、58系の国鉄型がキハ110に駆逐され、米坂線の国鉄型も置き換えが噂されている。
幼少時代に経験したキハ20からキハ40に置き換わる時は、カメラなど持っている訳も無く、記憶の片隅に薄っすらと残っているだけだが、このキハ40だけはしっかりと記録して行きたいと思う。


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